9 インディアン強制移住

18305月に連邦議会で成立したインディアン強制移住法に基づき、ミシシッピ川以東に住むインディアン諸部族は同川以西のインディアンテリトリー(現在のオクラホマ州を含む地域)に移住させられました。3134年のチョクトー族をはじめとして40年代半ばまでに移住を強いられたインディアンの数は10万人以上とされます。

 

建国以来、合衆国はインディアン・白人の居住地分離を図り、土地割譲条約締結による土地有償購入を通じて白人に土地を取得させ、同時にインディアンの文明化(農業、キリスト教信仰、英語、学校教育など白人文明の受容)を推進しましたが、白人開拓民や州当局はインディアンに対ししばしば暴力で権利侵害を行います。特に1812年戦争と並行して五大湖地方や南東部でインディアンの武力抵抗が制圧されると、白人の土地奪取は激しさを増しました。

 

1803年のルイジアナ購入以降、ジェファソン大統領(3代 180109)によって提案されたミシシッピ川以西へのインディアン移住構想は、南東部諸州の突き上げを受けたジェームズ・モンロー大統領(5代 181725)によって1824年に初めて明言されました。モンローも次のジョン・クィンジー・アダムズ(第6代 182529)も国家権力による強制移住には踏み切りませんでしたが、南部奴隷制の利益を代弁し、インディアン掃討者の異名を持つアンドルージャクソン(7代 182937)は強制移住法の制定を促します。

 

ジャクソンは教書や書簡を通じて、移住が合意と人道主義に基づいて行われることを繰り返し強調しましたが、インディアンには移住による生存かさもなくば絶滅か、を迫る姿勢で臨みました。また、彼はインディアンの文明化能力や白人との潜在的な対等性を力説しましたが、それは白人の繁栄を妨げない場所でのインディアンの生活を前提としていました。

 

少なからぬインディアン部族が移住を死に物狂いで拒みました。北西部ではサック族・フォックス族連合がブラック・ホーク戦争(1832)、フロリダでは黒人逃亡奴隷と連帯したセミノール族が武力抵抗を試みました(1835-42)。南東部ではチェロキー族が独立主権国家の樹立を宣言して銃を拒否しました。同族は18世紀末から合衆国の提唱する文明化政策を部分的に受け入れ、黒人奴隷を使役するプランテーション経営を推進していました。白人との混血を多く含むチェロキー指導層は、白人文化に倣いながら憲法など政治機構を整備し、チェロキー文字と英語を併用した週刊誌「チェロキー・フェニックス」を刊行するなど、主体的な文化融合による白人社会との共存を図りました。チェロキー族は合衆国最高裁に移住の不当性を訴えましたが、ジャクソンは移住を無慈悲に迫りました。

 

移住は軍隊による暴力、営利欲に駆られた民間請負業者の不正、伝染病や悪天候により悲惨な結果を生みました。116日、1300㎞に及ぶチェロキー族の悲劇の旅路は15000人中4000人の死者を出し、「涙の道」と呼ばれています(東京から大阪までが約500㎞)。