· 

8 セクションの対立

1812年戦争後、工業化が発達した北東部では中央集権を支持し、工業促進のために、保護関税・国法銀行の設置・国内開発事業を要求しました。これに対し、黒人奴隷制度を保持する南部では中央集権に反対して州権論を唱え、保護関税・国法銀行の設置に反対します。また、奴隷制度をもたない農業的西部では農産物市場拡大と西部開発のために国内開発事業を要求し、北東部に対し債務者の立場にあったことから保護関税・国法銀行の設置には反対します。

 

19世紀前半、アメリカ経済は奴隷に苛酷な労働を強いることで驚異的に発展しましたが、奴隷制度は19世紀の歴史趨勢に合致するものではなく、衝突は避けられませんでした。

 

国内では自由州と奴隷州という異なる社会が急速に拡大し、1819年にはミズーリ州の連邦編入に際し、黒人奴隷制度を認めるか否かで対立が表面化します。これは「ミズーリ州に黒人奴隷制度を認めて連邦編入させる代わりに、メイン州をマサチューセッツ州から分離し黒人奴隷制を行わない自由州として連邦編入させる。今後はミズーリ州南境の北緯3630分線を境に、それ以北では黒人奴隷は認めない」という妥協により一時的に回避されました(1820年)。しかし、北緯3630分線以北では黒人奴隷制度が排除されることになったので、南部奴隷州には敗北と受け止められました。

 

北部ではギャリソンが「リベレーター」紙を刊行して奴隷制即時廃止を要求(1831年)、33年にはアメリカ奴隷制廃止協会を結成、また同年、イギリスでは奴隷制度廃止法が成立し、南部に衝撃を与えます。南部はこの状況の中、奴隷制擁護を公式見解とします。

 

1832年関税法が成立すると、サウスカロライナ州のプランター層は連邦法無効宣言を発して連邦からの分離も辞さない態度に出ます。その狙いは建国以来最高の税率を引き下げることだけでなく、高まる奴隷制批判を抑えるために連邦政府をゆさぶることにありました。この危機は翌33年にクレイの妥協案により回避されました。他方、北部の「金権貴族」に不信感を持つジャクソンは第二合衆国銀行の更新を拒否し(1832年)、連邦政府の預金を引き上げてお気に入りの州法銀行に預ける措置をとります(1834年)。その結果、第二合衆国銀行は廃止されましたが、これもセクションの利害対立を示すものでした。

 

そして、アメリカ=メキシコ戦争(1846-48年)の後対立は一層激化します。メキシコから獲得した土地にはミズーリ協定が適用できなかったのです。この領土に黒人奴隷制度が拡大することを恐れた北部はそれを禁じるウィルモット条項を提案します。その後、カリフォルニアでの金鉱発見(1848年)で人口が急増すると同州は自由州として連邦に編入され、自由州17に対し奴隷州は15となります。南部は上院での政治バランスが崩れるとし、強硬な態度に出ますが、同州を自由州として編入する一方新しい逃亡奴隷法を認める「1850年の妥協」により、かろうじて危機は回避されました。