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7 1812年戦争

独立後のアメリカは、いまだ後進国であり、経済的にイギリスに依存を強いられていました。ヨーロッパでナポレオン戦争が起きると、アメリカは英仏の対立の被害を受けつつも中立を保ちましたが、イギリスがナポレオンの大陸封鎖令(1806)の対抗措置としてアメリカの通商を妨害すると、18126月に対英宣戦を布告しました。この戦争では英米どちらも決定的な勝利は収めえず、181412月のヘント条約によって戦前の状態の修復が確認されました。

 

この1812年戦争は第2次独立戦争という別名を持ちます。それは、この戦争が自然の関税障壁の役目を果たし、国内工業の育成を促進したこと、⑵旧宗主国イギリスへの劣等感を跳ね返し、アメリカ人が国民的に自覚し自信をつけ、文化的精神的に独立する契機を促したといえるからです。これはその後の18151月のニュ―オーリンズン戦いにおける大勝利に象徴されます。

 

しかし、この戦争は本質的には米英の第二次領土争奪戦争、すなわちインディアンからの土地奪取戦争と言えるものです。このことは1812年戦争の開戦に強硬に賛成したのが北西部・南部の若手の好戦派議員であったことに示されています。北西部の好戦派議員はイギリス人がインディアンを操って背後からアメリカ人の進出を妨げていると主張し、南部の好戦派議員はフロリダ進出を目指していました。

 

北西部で白人への抵抗を先導したのは、ショーニー族の首長テカムセでした。彼は単独部部族の決起では白人に抗しえないとして、五大湖地方からメキシコ湾岸に至る地域の全インディアン部族の連帯による抵抗を説いて、諸部を歴訪しました。

 

1811年、彼がチョクトー族に「共通の敵に対し、共通の大義を掲げて連帯しないなら、我が民族の絶滅は近い」と呼びかけたその日、ハリソン将軍はテカムセの不在を狙ってその本拠地ティペカヌーを襲撃しました。翌18126月の1812年戦争勃発を好機と捉えたテカムセは2000人を超えるインディアン軍を率いてイギリス軍と合流、デトロイトを包囲してアメリカ軍を降伏させました。翌134月、テカムセはフォート・メイグでハリソン軍に対し、ティヌカペーの報復戦を挑み、大打撃を与えました。しかし、テカムセはイギリス軍との協調の乱れからカナダへ退却を余儀なくされ、同年10月テムズ川の戦いでハリソン軍に敗れ戦死しました。

 

南部においてテカムセの呼びかけに応じたのはクリーク族でした。ジョージア州からアラバマ州にかけての広大な領土を占有するクリーク族は、周辺州の圧迫・連邦政府の文明開化要求・フロリダ方面からのスペインの圧力を受ける中で、テカムセの呼びかけに応じる伝統派と連王政府の勧める文明化を受容する和平派とが部族内で対立しました。1813年に伝統派が和平派に対してミムズ砦虐殺事件を起こすと、これを口実としてテネシー州、ジョージア州、ミシシッピ準州が武力介入してクリーク戦争を引き起こしました。

 

 

この戦争でテネシー民兵軍を指揮し、1814年の講和条約で約2300エーカー(ジョージア州の五分の一、アラバマ州の五分の三に及ぶ地域)という広大な土地割譲を強要したのがアンドルー・ジャクソンでした。この後ジャクソンは1815年にイギリス軍を前述のニューオーリンズの戦いで破って国民的英雄となり、その人気を足場に就任した南部軍管区司令官として第一次セミノール戦争を起こし、多数のクリーク族伝統派や逃亡黒人奴隷を含むセミノール族をフロリダ半島奥地に掃討、フロリア併合(1819)に道を開きました。こうした名声を基に、ジャクソンは1828年に西部出身者として初の大統領になり、東部インディアンを国家権力によりミシシッピ川以西に強制移住させることとなります。