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6 領土拡張

1763年の英仏百年戦争後のパリ講和条約にしろ、1783年の独立戦争後のパリ講和条約にしろ、国際間の領土のやり取りは先住民の頭越しに行われました。独立戦争時もインディアンの多くはアメリカ人から土地と自由と独立を守るため、イギリスと同盟して戦いました。インディアンは降伏した覚えはなく、講和会議に呼ばれもしませんでしたが、イギリスは講和条約でその地をアメリカに譲渡しました。

 

他方連合会議は、この地方全部が「征服の権利」によりアメリカ領になったと主張し、使節団を派遣して各地のインディアンと個別交渉を進めました。征服された覚えのないインディアンは無理やり条約に署名させられましたが反発し、戦争の危機が迫りました。そこで連合会議は一歩退いて「征服の権利」を取り下げ、条約による境界線の確定と名目的価格での土地の購入というイギリス方式を復活させました。

 

しかし現地ではインディアン領への侵犯行為が後を絶ちませんでした。これに対し、北西部のインディアン連合はオハイオ川以北の土地は自分達の共有財産だと主張し、オハイオ川の境界線は譲れないという抵抗姿勢を示しました。新たに発足したワシントン政権は1790年と1791年に二度に渡り北西部に合衆国軍を派遣しましたが、インディアン連合軍の反撃にあい敗退しました。そこで94年に大規模な遠征軍を派遣してフォールン・ティンバースの戦いで彼らを撃破し、95年のグリーンヴィル条約でオハイオ川のはるか北西まで境界線を押し上げました。

 

他方、連合会議はその10年前からオハイオ川北の地方全域の土地処分方法と統治方法を定めた法律を制定し、その土地の売却さえ始めていました。その土地処分方法はのちに公有地となった西部全域に適用され、移住者からの強い要望で分割売却の最小面積が80エーカー、さらに40エーカー(160平方メートル)にまで縮小され、ローン延長期間も延長され、資金の乏しい者にも土地取得の機会が開かれました。その結果西部移住者の流れが増大し、インディアンからの土地奪取も加速しました。

 

一方、北西部領地の統治方法は1787年に連合会議で制定された「オハイオ川北西の合衆国領地の統治条例」で定められました。これは、北西部領地を人口の増加に応じて準州、さらには州へと昇格させて連邦に加入させるように定めたものです。これは、「オハイオ川北西部地方は、当面は一地域として連合会議が任命した総督以下の役人と3人の判事によって構成される暫定政府のもとに置かれる。この地方は5つの地域に分けられ、それぞれの地域は自由な成年男子の人口が5000人に達すると代議員からなる議会を持つ準州となる。さらに人口が6万人に達し、共和的州憲法を制定して連邦への加盟を申請すると合衆国憲法下にある独立13州と同等の資格で連邦への加入が認められる」というものです。この条令はその後全西部に適用されて合衆国の領地部分の基本法となりました(但し奴隷制度禁止条項は南西部領地条令から除外されます)。

 

 

反植民地主義を掲げて独立したアメリカは、このように、北西部領地を本国に組み込んでいくことで植民地を領有するという自己矛盾を犯すことなく大陸本土に領土を拡大していくことを可能にしたのでした。