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独立革命

 

17749月にフィラデルフィアで第1回大陸会議が開催されましたが、これは従来からの王権の下での合法な統治機構に対する非合法な革命権力機構でした。この創設により、アメリカに二つの権力が立ち並び、どちらが正統な権力になるかの闘いが始まります。

 

1775418日の夜、700人のイギリス軍がボストンを出発して革命の主導権を握る愛国派指導者の逮捕と武器庫の押収に向かいました。植民地側民兵はこれに応戦し、419日には、マサチューセッツのレキシントンとコンコードで戦いが始まり(Battles of Lexington and Concord)、8年に及ぶ独立戦争の幕が落とされました。

 

2か月後には第2回大陸会議(1775.5.10-1781.3.1)で、ジョージ・ワシントンを総司令官として大陸軍が創設されます。6月には大規模な戦いがボストンのブリーズヒル(Breed’s Hill)で起こりました(Battle of Bunker Hill)。最終的にはイギリス軍が陣地を占領して勝利となるのですが、イギリス側の死者は200人以上、負傷者は800人以上、それに対し植民地側は死者100人以上、負傷者300人以上で済み、その後の奮起を引き起こすものとなりました。

 

この段階でも多くの植民地人は、まだ本国との和解を望んでいましたが、17761月に発刊されたトマス・ペインの「コモン・センス」が独立への決意を促します。そしてついに17764月、大陸会議は独立宣言を公布し戦争の大義を内外に宣言することとなりました。この頃には各植民地で新憲法が制定され共和制への転換が進められると、愛国派を支持する人が増え、国王派は土地と財産を没収されアメリカから追放されていきました。こうして愛国派は人民の支持を得て合法政府を作ることに成功したのでした。

 

その後177710月にニューヨーク北方のサラトガでの戦い(Battle of Saratoga)での勝利が内戦から始まったアメリカ革命を国際戦争へと進展させます。これまで秘密裡での支援のみであったフランスが、17782月に米仏同盟を結び参戦します(但し正式な宣戦布告は17786月)。さらに17796月にはスペインもフランスとの同盟を基に参戦し、1780年にはオランダがアメリカ側に参戦。同年の1780年イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成されイギリスは国際的に孤立し、国際情勢はアメリカ独立に優勢となっていきました。

 

178110月には米仏連合軍のヴァージニアのヨークタウンでの勝利で、この革命戦争は終焉に向かいます(Battle of Yorktown)。

 

17839月、パリ講和条約でアメリカは独立を認められ、さらに国境をミシシッピ川まで伸ばすこととなりました。

 

アメリカ革命戦争により愛国派に与した白人男性は多くの自由と独立を得ましたが、最後に、開放されなかった人々を見てみましょう。

 

まず、黒人奴隷ですが、戦争中、イギリス側からも愛国派側からも解放約束で従軍しましたが、大半が約束を反故にされました。奴隷人口の少ない北部では州では奴隷制を廃止する法律が出始めましたが、奴隷人口の90%以上が居住する南部では奴隷制度はそのまま温存され、その後原綿の需要の増加共に、拡大され強化されていきます。

 

次にインディアンは、愛国派の侵攻から自分たちの自由と土地を守るために大半はイギリス側に付き戦いましたが、これに対し愛国派は徹底的に報復し彼らを抑圧していきます。

 

また、世界史資料集での独立宣言でも「人は」と訳されていますが、英文では“men”で、女性は含まれていません。女性は教育の機会を得るほかには、政治的にも社会的にも依然として抑圧された状態が続きます。

 

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.