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4 対英抵抗

七年戦争、フレンチ=インディアン戦争終結のパリ条約(1763年)から1775年までのアメリカ13植民地イギリスに対する抵抗運動を勉強しましょう。

 

七年戦争、フレンチ=インディアン戦争後のパリ条約(1763年)でイギリスはカナダ・ミシシッピ川以東を獲得し、イギリスの北アメリカにおける優位を確定したと前回勉強しましたが、この戦争にかかった額は膨大でした。国債は7300万ポンドから13700万ポンドとなり、800万ポンドの歳入のうち500万ポンドを国債利子として支払わなくてはならないこととなりました。

 

さらに、カナダ、フロリダ、東ルイジアナを得て拡張したことで、帝国の防衛と統治という新たな問題が生まれました。イギリスの五大湖地方支配に不満を抱いた北西部のインディアン諸部族が、オタワの首長ポンティアックの指導下に反乱を起こしたのです(ポンティアック戦争1763 - 1765年)。これを受けてイギリスは早々に、国王宣言(1763年)を発しました。これは、アパラチア山脈の西にあるインディアンの土地との間に境界線を引き、アメリカの植民地人にアパラチア山脈の西側への入植や土地の購入を禁じたものです。

また、新たに1万人の駐留軍の費用の一部を補うため、植民地で収益を上げる砂糖法(1764)、新聞・各種証書・パンフレット・トランプなどに印紙を貼ることを義務とする印紙法(1765)、茶・ガラス・紙・鉛・塗料などに関税をかけるタウンゼント諸法(1767年)などを通過させ、同時に密輸の根絶のため、関税組織や海軍力の強化を図りました。植民地は9植民地の代表からなる印紙法会議(1765)を開き、陳情や抗議を繰り返し、本国製品のボイコットをし、印紙法、さらに茶を除くタウンゼント諸法を撤廃させました。

 

都市民衆の抗議の背景には、フレンチ=インディアン戦争終結による海軍水兵や私掠船水夫の解雇、造船・海運業の不況による失業、生活難がありました。

 

独立戦争時のスローガンとしての「代表なければ課税なし」No taxation without representation 13世紀に制定されたマグナ・カルタに由来するもので、イギリス法において人民の権利の一つとして保証されてきたものです。パトリック=ヘンリはこれを印紙法に反対するヴァージニア植民地議会で提案し、小差で可決されました(1765年)。当初は、植民地人もイギリス臣民としての権利を有するとするとする主張で、独立を求めるものではありませんでした。

 

しかし、1773年、イギリス議会が東インド会社にアメリカに於ける茶の独占販売権を付与したことで抵抗が激化しました。同年12月、インディアンに扮したボストン急進派が停泊中に3隻の茶船を襲い、茶を全て海に投棄(ボストン茶会事件)、これに対し、イギリス議会は強圧的諸条令を制定し(1774) 、ボストン港を封鎖、マサチューセッツ下院の権限を弱める等処置を取りました。反発した植民地側はボストンを救援、17749月にはフィラデルフィアで第1回大陸会議を開催し、イギリス議会の近年の全法律の撤廃を求めるとともに対英経済ボイコット組織である「大陸通商断絶同盟」を結びました。

 

 

かくして13植民地における対英抵抗の足並がそろい始めたのでした。